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アンドラーシュ (ガーリチ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンドラーシュ
András
ガーリチ公
在位 1226年 - 1229年1231年 - 1233年

出生 1210年
死去 1233年
配偶者 マリヤ・ムスチスラヴナ
家名 アールパード家
父親 ハンガリーアンドラーシュ2世
母親 ゲルトルート・フォン・アンデクス
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アンドラーシュハンガリー語: András1210年頃 - 1233年)は、ハンガリー王アンドラーシュ2世の子である。ハンガリー王子として生まれ、ルーシのガーリチ公国の公位を有した(ガーリチ公:1226年 - 1229年、1231年 - 1233年)。なお、同じくハンガリー王家出身でガーリチ公となったカールマーンの兄弟にあたる。

生涯

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アンドラーシュは、ハンガリー王アンドラーシュ2世と王妃ゲルトルードとの間に生まれた、3番めの息子(末弟)であるとされる[1]。13世紀の初期に、父のアンドラーシュ2世はガーリチ地方への軍事的干渉を行っており、アンドラーシュの兄弟であるカールマーンをガーリチ公位に就けようと画策したが失敗に終わっていた。1221年、アンドラーシュ2世はガーリチ公ムスチスラフと和平条約を締結し、アンドラーシュと、ムスチスラフの娘・マリヤとの間に婚儀が結ばれた。1223年、ルーシ諸公軍とモンゴル帝国軍との間でカルカ河畔の戦いが行われ、ルーシ諸公軍が敗北した。義父ムスチスラフは、参戦したルーシの諸公国の1つであるスモレンスク公国の消耗に乗じ、ガーリチポドリエ両地方に地盤を固めたが、1228年に死亡した。

ムスチスラフの死後、アンドラーシュはガーリチ公位にあったが、同じくムスチスラフの娘婿であるダニールをガーリチ公位に迎えようとするガーリチのボヤーレ(貴族層)らと敵対、内紛の対処に追われた。1229年、ダニールによってアンドラーシュは捕虜となり、その後追放された。ガーリチ公位はダニールの手に渡った。アンドラーシュは、祖国ハンガリーや、自身の側に加担するボヤーレの軍と共にガーリチ奪還を試みたが、軍中に伝染病が発生したため、父アンドラーシュ2世は軍を引き返させた。

1231年、ガーリチ公位にあったダニールと、ベルズ公アレクサンドルとの間に紛争が発生した。この渦中において、ガーリチのボヤーレはアンドラーシュをガーリチ公位に招き、アンドラーシュは軍を率いて再びガーリチへと入った。一方ダニールもまたガーリチ公位を譲渡しようとはせず、キエフ大公ウラジーミルポロヴェツ族と連合してガーリチに攻め寄せた。最終的には1233年にアンドラーシュが死亡し、ガーリチ公位はダニールの手中に収まった。

出典

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  1. ^ Kristó, Gyula; Makk, Ferenc (1996). Az Árpád-ház uralkodói [Rulers of the House of Árpád] (in Hungarian). I.P.C. Könyvek - p. 232, Appendix 4.
先代
ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ
ガーリチ公
1226年 - 1229年
次代
ダヌィーロ・ロマーノヴィチ
先代
ダヌィーロ・ロマーノヴィチ
ガーリチ公
1231年 - 1233年
次代
ダヌィーロ・ロマーノヴィチ